北烏山編集室
 
2023/9/26

斎藤真理子著『本の栞にぶら下がる』感想メモ

 以下は、斎藤真理子さんの『本の栞にぶら下がる』(岩波書店)の感想メモである。書評を書きかけたが、きちんとまとめるのには時間がかかりそうなので、思いつくままメモ書きにした。丸数字を入れたのは、もともとはtwitterにアップしようとしたからで、ここにあげるにあたっては丸数字を削除したほうがいいのかもしれないのだが、ブログに上げるつもりだったら別の文章にもなったかもしれないので、敢えて丸数字を残している。
 
① 読了。これは「読書エッセイ」である。書評集ではない。本をきっかけにして考えたこと、感じたことを自由に書いていくエッセイ的なもののほうがストレートな書評よりも心に残るし、よい読書案内にもなる。
 
② 実際、この本を読み終えたら、読んでいないあの本、この本をネット書店で注文しまくっていた。10月末に共和国さんから「永山則夫小説集成」という二冊本が出る。先日もブックマーケットでチラシを頂戴して、買ってしまいそうだな、という予感(と怖れ)があった。そして、今度、斎藤さんが永山について書いているのを読んでしまったので購入決定である。
 
③ この種の読書エッセイで、私が忘れがたいと思ったのは、岩田宏さんの『渡り歩き』(草思社)である。この本の素晴らしさについて書き出すとこれまたキリがないのでここではやめておくが、この斎藤さんのご本、私のなかでは岩田さんの本と並ぶすばらしい読書エッセイとして記憶されることになるだろう。
 
④ 私の好みは、この本の前半よりは後半である。とりわけ、「『やさしみ』のやりとり」以降の文章がすばらしい。急いで付け加えておくと、前半部が悪いわけでは全然ない。『韓国文学の中心にあるもの』で韓国の現代文学について書いた斎藤さんは今回の本ではさらに枠を広げて日本文学やほかの海外文学についても論じている。永山則夫の小説における在日朝鮮人像に触れているところや、後藤郁子の清新な「或る朝鮮少女に」を紹介しているところもいい。しかし、私は後半のほうが、斎藤さんの筆がのびのびしていると思うし、斎藤さんの新しい側面が見えるような気がした。
 
⑤ これは私の直観なのだが、斎藤さんは相当に鶴見俊輔さんが好きなはずである。鶴見さんの『思い出袋』について書いたエッセイもあるし、中村きい子の『女と刀』の鶴見さんの解説についても触れている。鶴見さんが繰り返し読んだイシャウッドの『キャスリーンとフランク』の話も出てくる。
 
⑥ でも、斎藤さんが鶴見さんの愛読者であるはずだと感じたのは、「三人の女性の『敗戦日記』」について書いた文章である。「十代、二十代、六十代と書いた人の年代は違うが、どの日記も、暮らしを手放さない、手放せないままで極限状況を生きた記録だ」という文章があって、この「暮らしを手放さない、手放せないままで」というところの語法が鶴見節なのだ。
 
⑦ そして、私が後半部分がいいというのは、まさにこの「暮らし」のなかから生まれてきたような文章が並んでいるからなのだ。田辺聖子のOL小説、森村桂の就活小説、マダム・マサコの「衣」にまつわるエッセイ、編み物と読書といったエッセイを読んでいると、私は斎藤さんが韓国文学翻訳者として活躍するようになる以前の、ごくごく普通のOLとして暮らしてきた痕跡がありありと想像できるような気がしたのである。
 
⑧ 田辺聖子のOL小説のところをいくつか引いてみる。「例えば、『夜明けのさようなら』の主人公、レイ子という人がいい。(略)彼女が、嬉しいことがあったときに『赤いショルダーバックを、クサリ鎌のようにぶんぶん振り廻しながら』歩いていくという描写がある。こんなところを読むとおかしくて、この人にいいことがいっぱいあってほしいと思うし、この人が勤めている会社がほんとにあったらいいと思うし、どうせ入社するならそこがいいと思う。」
 
⑨ 田辺聖子の向日的な書きぶりをたった1行の引用で見事に表現している箇所だが、「おかしくて、」のあと、なんで斎藤さんはこんなふうに言葉を尽くしていい会社の存在を願うのだろう。ここには斎藤さんの切実な願いがあるんだと思う。そういう会社ではなかったかもしれない記憶がここには潜んでいるかもしれない。
 
⑩ そして、こういう文章がある。「私が田辺聖子の七〇年代OL小説を好きな理由はこのあたりにもあって、彼女たちが『考える女子』だからである。
 普通の女子は、考える女子なのだ。」
 この最後の一文に痺れないだろうか。
 
⑪ そして、それに続く文章はこうだ。「なぜなら、女子こそ考えずには生きていけないからだ。田辺聖子はそういう意味のことを書きつづけた作家だと思う。そして、考えつづけるためには、友が要る。もっといえば同僚が要る」。
 
⑫ 田辺聖子が描く会社の同僚について斎藤さんはこう書く。「お互い、すべてを打ち明けあっているわけではないが、彼女たちは毎月曜日、週末のデートの報告(出し惜しみしながら)をすることから始まり、同僚の目に照らしながら自分の今と、未来について考えている。優劣を比べたりするわけではない。知らず知らずのうちに、お互いの考えの伴走者になっているみたいなのだ。」
 
⑬ 「職場はあくまで金と評価のからむ現場だ。食べていくためにたまたまそこへ飛び込んだらうまの合う人がいた、というのは決して小さな幸運ではない。そんな確率で幸運が手に入ったのなら、これからもこの世でやっていけそうではないか」。これはもはや田辺聖子の小説についてだけ語っているのではない。田辺聖子の小説に仮託して自分の思いを語っているのだ。私はこのあたりを読んでいて、実は目頭が熱くなった。
 
⑭ この田辺聖子についてのエッセイは、そのあと、小説を読み返してみて、「そこが何をする会社だかさっぱりわからない」と指摘する。仕事内容をうかがい知れるのは「伝票」という言葉だけで、それは男性社員も同様。「おせいさんは、女と男がいて伝票があれば会社でしょ、と思ってたんじゃないだろうか」とある。笑うほかないが、田辺聖子小説の本質をついている指摘だろう。
 
⑮ さて、この本の最後に収録されているエッセイの表題となっている「本の栞にぶら下がる」という文章である。いつも本を付箋だらけにして読み、その付箋を頼りに文章を書く(しかし、付箋、メモとめとの戦いには「じわじわと負けつづけていた」という。その戦いに勝ち目がないことは多くの読者が深く頷くことであろう)。それに対して、イシャウッド『キャスリーンとフランク』を読んでいるときには、「何も引用しなくていいことが、とても幸福だった。自分はここしばらく、引用するために本を読んでいたのだなあと、悟った」という。
 
⑯ 付箋やメモはいくらでも立てられる。しかし、それは言ってみれば情報を記憶していくための「外部脳」(斎藤さんの言葉)にすぎない。それに対して、本の栞は基本的に1本だけだ。ここぞ、というところにのみ挟まれる。私には、この本の前半部はどこか付箋を頼りに書いた文章、後半は栞を頼りに書いた文章、いや栞さえも必要でなく書かれた文章に見えたのである。後半部の「のびのび感」はそこに由来するのではないか、そんなことをふと考えてみるのである。
 
⑰ 「考えの伴走者」として斎藤さんが読んできた本について書かれているのがこの本の後半部である。田辺聖子も森村桂もマダム・マサコも中村きい子も斎藤さんにとっては「考えの伴走者」であり、自分の位置を確認し、いろいろと思いに任せぬ環境において応援をしてくれた本たちであったろう。
 
⑱ 斎藤さんが韓国文学翻訳者になるまでの人生を私は知らない。でも、仕事以外の本は読めないような時期が20年ほどあったと書いてある。その時期の暮らしの重みが、この本にはあるような気がした。どこか軽く見ていた田辺聖子の作品の数々に親しむようになったのも、斎藤さんが暮らしを手放さずにいたからではなかったのか。
 
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