北烏山編集室
 
2023/7/26

一英語編集者の戦中と戦後

 以下の文章は、2002年に中京大学の『八事』という評論誌の求めに応じて寄稿した文章である。特集テーマは「生存」で、それに関するエッセイなら何を書いても良いということだった。

 

 筆者の勤務する研究社という出版社は九十五年の長い歴史を持つ。あの太平洋戦争の時代を生き延びた会社である。当時、紙は配給制になり、印刷に使う紙にも事欠くようになった。英語は敵国語である。その時代の出版目録を見ると、細々とながら英語のテキストなども出しているが、ナチス御用作家と言われたハンス・ヨーストの『母死なず』など、同盟国ドイツの小説の注釈本や、<小国民・理科の研究叢書>というような実学的な本が目立って多くなっている。

 真珠湾攻撃があったのは一九四一年十二月七日。戦争が始まってからも研究社は英語雑誌を出していた。研究社の看板英語学習雑誌『英語研究』の編集長(以下、かりにAさんと呼んでおく)は、日米間で戦争が始まった直後の一月号の編集後記をこんな文章で書き始めている。

 

 諸君、暴戻膺懲の聖戦、その名も雄大にして荘厳な、大東亜戦争の幕は切って落とされました。開戦三日にして両国太平洋艦隊の主力を撃滅し(中略)何たる爽快、何たる感激。

 

もやもやと鬱積した空気が覆っていたであろうその当時、真珠湾攻撃の成功が、どれほど日本人の多くを感激させたかは今の私には想像もできないが、この文章が、緒戦の勝利の高揚するような雰囲気のなかで書かれていることは間違いない。言い替えれば、Aさんは、ごくごく普通の日本人と同じ反応をしていたのではないかと思う。では、Aさんは、英語については、どのように考えていたのであろうか。

 

 

 我等が日頃唱えて来た英語研究必要論は此の期に及んで全く蝶々を要せぬこととなりました。今や全く議論の余地なし。(中略)我敵は総てこれ英語を操る国ではないか。孫子の古言に俟つまでもなく「敵を知り己れを知らば百戦危うからず」であります。

 

英語が敵国語であった時代、英語に関わっていた者たちは、ただ黙っていたわけではない。英語は敵国語であり、英語を学習することは非国民のやることだという雰囲気があった時代、彼らはむしろ、敵国語である英語を学習することが、どんなにか、戦時日本において力となりうるかを語ろうとしたのであった。英語編集者としてのサヴァイヴァルである。これは編集者だけに限らない。読者に向かって、英語を教える立場にあった多くの英語名人たちも、自分の人生を賭けてその習得につとめてきた英語という言葉の学習が戦争中にあっても意味のないものではないということ、つまりは、英語学習と世の中との間になんとか折り合いをつけようとしていたのであった。たとえば、英作文の神様と言われた伊地知純正が、やはり真珠湾攻撃の直後に書いた文章のなかでこう言う。

 

 

 英語は我敵国米英民族との交渉には目下の所余り必要ないが、第三国との交渉には必要欠くべからざるmeans of communicationである。(中略)これらの戦勝地域(筆者注:ハワイ、マニラ、香港、シンガポールなどの地域を指す)は全て英語を日常語としている所である。...我等の究極の目的は日本語を大東亜に一般化することであるが、物には順序がある。即ち過渡期の用語として英語は最も便利である。

 

似た発言は同時代におびただしく見られる。「言語を利用して我が八紘一宇の大理想を実現する手段となす」、さらには、「大東亜戦争に於て、日本が米英に打勝った暁には、日本は米英人再教育に関する種々の問題に直面することになる。日本に於ける英語教育は今日最も緊要なことではあるまいか」というような、今の時点からすると夢物語としか思えない発言すらあった。英語をなんとか国策に合わせていこうとする苦し紛れのすり合わせが、多くの英語関係者によってなされた。それが戦中であった。

 

 しかし、英語学習をめぐる自問自答など、小さな辻褄合わせにすぎないと思わせる劇的な時代の変化がやってくる。言うまでもなく、一九四五年、日本が連合国軍に負け、占領軍が進駐し、英語が日本全土にあふれたからである。

 

 上の後記を書いた当時の『英語研究』の編集長であったAさんが、戦争中、どんなことを考えていたのか、資料がないのでいま私には確かめるすべがない。私が知っているのはAさんが一九四三年に応召され、陸軍船舶部隊に入隊、その後、沖縄戦線へ転戦、山口県で終戦を迎えたということである。一九四五年九月、会社に戻ってきたAさんは、早くも十月、『時事英語研究』を創刊、その初代編集長に就任する。そして、編集後記を書いた。

 

 

 ワンラ。ワンラ。 
 戦争は終りました。
 行くべき道は完全に示されましています。今更ら何を言ひませう。
 The war is over. 此の一言でドッと爆笑が揚がります。進駐軍放送局WVTRにダイヤルを廻すと聞こえて来た一情景です。(中略)
 戦争は終わったというのになんとしたことでせう。
 驚くべき此の虚脱状態は。いけない、いけない。(中略)
 復興へ、一日も早く。
 職場へ、一刻も早く。
 そして民主主義の復活へ----

 

真珠湾攻撃直後の編集後記がそうであったように、なんと溌剌とした文章であろう。雑誌編集者に求められる条件は世の中の「空気」に敏感であることだとすれば、Aさんは、確かに、世間の空気に敏感なすぐれた編集者であった。そして、その空気を表現する文章の能力にも、人並みはずれたものをもっていたと思う。読者の心をぐっとつかむような「ワンラ、ワンラ」という書き出しの擬音語。「ドッと爆笑が揚がる」というあたりの、明るい時代を象徴するような、じつに鮮烈な表現。才能あふれる書き手にして可能なすぐれた書き出しであって、嘆賞を禁じ得ない。[注:「ワンラ、ワンラ」を私は当時「擬音語」と書いたが、これは恥ずかしい間違いである。この言葉は中国語で「終了」の意味である]

 

 ただ、この編集後記を書いたAさんは、真珠湾攻撃のときに、「何たる爽快、何たる感激」と書いた人でもあった。このことをどう考えるべきであろうか。人はこれを転向と呼ぶであろうか。軍国主義に荷担した戦中から、戦後の手放しの民主主義礼賛へ。手の平を裏返したような思想の転向であると人は言うであろうか。二つの文章を読むと、弾むような心の動きが手に取るように感じられて、ここには嘘はないのだと私には感じられる。真珠湾攻撃の時も戦後の占領の時も、Aさんは確かに、新しい時代の到来を喜んでいた。誰かに命じられて仕方なく書いたと言うような文章ではないのだ。

 

 そもそも、Aさんの真珠湾攻撃に対する反応が日本人の平均的なそれであったように、上の編集後記も一般の日本人が抱いていた感慨とそう遠くないところにある。ただ、世間の考えている、感じていることを、あまりにはっきりした形で表現して見せただけであった。問われるべきは、そういう部分よりも、Aさんが、英語のプロとして英語編集者という専門家として語った部分である。そこにおいてこそ、Aさんの、英語のプロとしての根拠が問われるべきだと思うからである。

 

 Aさんはこう書く。

 

今度の戦争を契機として英米という言葉はことごとく米英の語に変りました。世界政治上の地位ばかりでなく、言語の世界的重要性という見地からも、米英の順位はもはや揺るがぬところと見られます。

 

 これからの時代はアメリカ英語が重要という認識はまったく正しい。正しかったからこそ、Aさんは、その後、『時事英語研究』という雑誌の名編集長として活躍、教養ばかり言い募り文学物に偏りがちのこれまでの英語学習を改善すべく、新聞や雑誌の英語、人々が話す活きた英語に注目した路線を打ち出し、戦後の英語学習者の支持を得ることができた。しかし、Aさんが、(アメリカ英語が世界を風靡しているのは)「民主々義的、大衆的、プロレタリア的能率主義に基づく言語の合理化、簡易化の勝利ちということを意味するのだと思ひます」と書くとき、控えめな言葉を使うのであれば「時代に敏感すぎる」という思いを、私はどうしてもおさえることができない。とくに、大衆的、プロレタリア的とう、いずれも戦後直後プラスの価値をもった言葉を積極化的に用いているあたりに、そういうことを感じるのである。

 Aさんは、戦争中、こう書いた、「敵を知り己れを知らば百戦危うからず」と。戦中と戦後で、Aさんの英語の有用性への確信は揺らいでいない。しかし、その確信の根拠が、戦中と戦後でかくも違っているとすれば、それはAさんが、敵に勝つために英語が必要だとも、民主主義的で大衆的な言語だから英語が大事であるとも、「心の底からは」思っていないということではなかろうか。英語は有用である。それは英語をなりわいとする人間にとって前提であって、英語学習者の重要性については、時代の要請に応じて、伸縮自在、融通無碍に、いくらでも理由づけをすることが可能なのである。英語は敵国語だと言われれば敵を知らなければいけないと抗弁し、これからは英語の時代だということになれば、その通りだと言ってみせる、その「なんでも言えてしまう」ということにこそ、戦争中、戦後の、Aさんの発言を、考えるべきポイントがあるのではないかと思うのである。時代の要請を鋭敏に感じつつも、その時代を俯瞰の位置から見渡す視点を持つためには「思想」が必要だが、Aさんにはじつは思想と呼べるものは存在しない。したがって転向というものも存在しない、というのが私の意見である。Aさんが言っているのは、「こういう時代にこういう道具は必要ありません」と言われて、「この道具はこういうようにも使えます」と答える、いわば技術者的な論理であって、これは思想と呼ぶべきものではなかろう。英語を学ぶことについての、苦しみを伴う思想的なドラマはないのである。

 かつて評論家の鶴見俊輔さんに、次のような私信をいただいたことがある。

 

日中戦争のあいだ、日本の中国文学者は苦しんで、自分がなぜ中国文学を研究するかを考えたのでしょう。日本の英文学者の百分の一にすぎない日本の中国文学者の中から竹内好と武田泰淳があらわれた。こういう問題を英文学者に問うことを半世紀以上忘れていたことの中に日本の英文学者の深い問題を感じます。

 

 この一節の「英文学者」という言葉は、文学者だけでなく、英語の携わってきた人々すべてに向けられていると思う。Aさんの内心のドラマがどうであったかはわからない。しかし、Aさんの文章を読むかぎり、そこには苦渋よりは何かしら心浮き立つような楽しげな調子ばかりが響いてくるように私には思えるのである。時代のあとを行く者が先人の成したこと、言ったことを批判するのはまことにたやすい。そのことを認めつつ、なお一点残念なのは、Aさんの文章が、すぐれた編集者らしく時代の空気を存分に吸い込んでいることなのである。しかし、その心のはずみがあったからこそ、Aさんは雑誌編集者として生き延び活躍することができたのではないか、とさらに問うとき、私はただ沈黙するほかない。

 

[後日談:この文章を書いて1, 2年経った頃だろうか、日本大学から私宛に贈答品が届いた。箱をあけると、そこには、日本大学資源学部が作ったという牛時雨煮やソーセージの缶詰がセットとなって入っていた。首を傾げていると、次の日に今度は郵便が来て、あなたの文章を入試問題に採用したお礼を送ったので、受け取ってほしいと書かれていて、上に書いた文章を入試に使った国語の問題が同封されていた。ちょっと古めの日本語が含まれている文章なので入試に都合がよかったのかもしれない(2023年7月18日記)]

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