北烏山編集室
 
2023/10/7

古田徹也『謝罪論』未読感想序説

 以下は、古田徹也さんの『謝罪論』(柏書房)の出版記念イベント(新宿・紀伊國屋書店)の感想。メモ書きであるし、校正も殆どしていない。

 

① 昨夜は、古田徹也さんの『謝罪論』(柏書房)の出版記念イベントが新宿の紀伊國屋書店で開催された。イベントに参加予定の友人が急遽行けなくなり、私が代わりに参加。本を読む前にイベントへ行くことになったのだが、古田さんのお話を聞いたあと、いろいろな思考と連想が止まらないでいる。

 

② ちょっと何から書いたらいいか分からないぐらい、あれこれ思うことがあったのだが、このイベント「謝罪の迷宮」という題名について書く。この言葉は、古田さんから原稿をもらった編集者の天野潤平さんが古田さんに原稿の感想として述べたものだという。

 

③ 謝罪という問題系について、いろんな道をたどって論を進めていったら、そこは行き止まりだったので、次に、別の道をたどっていくとかなり出口のところまで行けるのだけど、そこもまた行き止まりになっている、そういう迷宮での彷徨の記録みたいな原稿、というような感想だったらしい。

 

④ 編集者が原稿をもらって「すばらしい」「面白い」という感想を著者に言うことは大事なことだ。でも、私は、原稿をもらっての「良かった」というベタな感想は実はそんなに程度が高くないような気もずっとしている。

 

⑤ むしろ、原稿の「構造」を言い当てて、それを正確に伝えることのほうがはるかに高度な技術であるし、著者にとっても最上の褒め言葉になるはずである。古田さんが「謝罪の迷宮」という題名を今回のイベントのために選んだ事実が、この感想を読んだ古田さんの感激みたいなものを表しているのではないか。

 

⑥ 原稿に対して、「謝罪の迷宮」という感想を述べるということは、原稿内容についての解説であると同時に、一種の褒め言葉として機能しているということである。言い換えれば、「ほめる」という言語行為は、「すばらしい」というそのままの言葉だけで表現されるわけではないということである。

 

⑦ 言語と、その言語が表そうとしている事態(この場合は、その原稿が面白いと感じたという事態)の取り結ぶ関係は複雑だ。褒めるという言語行為ひとつとっても、その表現の仕方にはいろいろな形式がある。それと同様に、古田さんの『謝罪論』が扱おうとしているのも、言語と心の関係性である。そして、謝罪ほどケーススタディとして有効なものはないのではないかという予感が私にはあった。だからこの本が出たときに、すぐに購入したのである。そして、イベントに参加してみて、私の予感は確信に変わった。

 

⑧ いきなり大上段の話になってしまったのだけれど、具体的な話の一つ一つが私にはビンビンと響いた。たとえば、日本語の「すみません」という言葉は、謝らないことには気が済まない、ということであり、この「済む」は「澄む」から来ているという話。

 

⑨ もやもやした思い、ふっきれない思い、心にわだかまる濁ったものが、言葉によって下に沈んで、心という水が澄んでくる。それが「すみません」の原義だという話。そして、謝罪する側の心が「澄む」だけでなく、謝罪を受けた側の心も「澄む」ことが、謝罪のコミュニケーションで起こっていることだという(というのが私の理解)。

 

⑩ こういう話を聞いていて思うのは、謝罪する側の心は澄んでも、謝罪を受け取る側の心が澄まないということはいくらでもあるよね、という問題で、結局、謝罪という言語行為もコミュニケーションである限り、コミュニケーションの起点だけでなく、それを受け取る終点にいる人との間で、意味の交渉が行われるという話である。

 

⑪ イベントでも、そして本のなかではさらに詳しく、『北の国から』の、あの有名な謝罪シーン(田中邦衛が息子の不品行をわびるために菅原文太の前で土下座するシーン)が取り上げられていた。菅原文太は土下座を見ても「誠意って、何かね」とつめよる。これはつまり、コミュニケーションの失敗が起きているということだ。

 

⑫ では、謝罪者による謝罪が、それを受け取る側にとって謝罪として認定されるためには何が必要か。『北の国から』では、それは虎の子のようにしていたためていた預金を擲つという決意である。その決意を示すことによって、相手からの謝罪は、一定の評価を得ることができ、許しを部分的にも獲得することができる。

 

⑬ しかし、コミュニケーションである限り、許しは得ることはできたとしても、過去は完全には回復されない。過去は取り消せないからだ。『北の国から』ならまだしも、戦争中の残虐行為に対する謝罪となると、その謝罪には終わりがないかもしれず、謝罪という言語行為、そしてさらに広くは言語行為そのものが抱え込んでいる言語行為の不全性を示している、というようなことも考える。

 

⑭ と同時に、しかし、それでは言語行為としての「謝罪」には意味がないかと言えば、そんなことはむろんないだろう。「謝罪」という言語行為は、いわば、謝罪の気持ちを表す「最後の砦」(あるいは少なくても「最後の砦」の一つ)である。謝罪の言語形式は、それがどんなに形骸化したものであっても、最低限の謝罪の一形式となりうるのだ。

 

⑮ 私たちは「『すみません』の一言ぐらい言えよ」などという。それは、そうやって発せられた「すみません」がたとえ心からのものではなくても、せめて言葉だけでも表現してくれればまだまし、という判断をしていることを意味している。

 

⑯ 「心」は定かではなく、外からは「心」はなかなか観察できない。そこには「心」を表す「形式」が必要だ。その形式には、たとえば、「済まなそうな顔」もあれば、「すみません」の一言である場合もあるが、後者の言語形式によるものが戦略として相当のバリエーションを持っている。

 

⑰ 古田さんがイベントで語っていたのは、Amazonなどで「謝罪」に関する本を検索すると、その殆どが、「効果的な謝罪の方法」というようなハウツー本であるという。だから、自分は、謝罪とはどういう行為かについて書いたという。

 

⑱ しかし、逆に言うならば、そのような本が多数出るといのは、効果的な謝罪というものが一筋縄でないことを意味してもいるのではないか。そして、それは古田さんが話のなかで強調していた、謝罪というものが極めて複雑な行為であるという問題を別の角度から証明しているような気もするのである。

 

⑲ そういう本を読む人たちも、そんな本を読んで本当の意味での「謝罪」を表現できるとは思っていない。しかし、お詫びの言語形式をとにかく学ぶことによって、最低限の謝罪をしなければならないというふうに思っているという意味で、すでに謝罪という行為が始まっているのかもしれない。

 

⑳ ここに析出している問題は、人間にとって「形式」とは何か、という問題でもある。形式に依存すればすむわけではない問題はたくさんある。しかし、形式がないのだとすれば、人間は心を表現する手段を相当の部分失ってしまうというジレンマに陥る。

 

㉑ 突然思い出した。イッセー尾形の「亀井」というネタである。ここには、謝罪をめぐる言語行為と心の問題が、いろんな形で表現されている。

 

㉒ 今回のイベントには、ほかにもいろんな面白い問題が語られた(Sorry works運動の話は、謝罪問題を考える場合、たいへん面白い例である)。話を聞いて、いろんなタイプの謝罪を思い出した。古田さんは向田邦子の『父の詫び状』も例に挙げていた。

 

㉓ 誠意であれ、感動であれ、それを語る言葉は、しばしば即興的であることとも深く関わってくる。「謝罪の効果的な方法」というマニュアル化されたものではない、謝罪を行う人間の、そしてその状況のなかでの、殆ど一回きりしか通用しないような謝罪。即興的であるがゆえに、口ごもったり、くりかえしが多くなったりもする。

 

㉔ しかし、その冗長性や断片性が、逆にその謝罪者の切実な思いを演出することにもつながるという逆説。これはつまり、文学でいえばモダニズム以降の文学が取り組もうとした問題である。そして、ここまで来ると、議論は殆ど「即興と文学」を語る阿部公彦さんの議論と接続する。

 

㉕ その阿部さんがほぼ同じ時期に刊行したのが『事務に踊る人々』である。この本と謝罪論は別個のものと見える人があるかもしれないが、私に言わせれば、この2冊は殆ど同じ方向性の問題を考えているように思う。それは、形式、更に特化すれば言語形式によって、人間はどのように心を表現しようとしているかである。

 

㉖ メモなので、もうただ思いつくまま、連想に連想を連ね、論の首尾一貫性などかまわず書いてきた。とにかく、私にとってはこのイベントが面白かったのはそういうことなのだ。哲学的な問題から、イッセー尾形、『北の国から』、それから収録に遅れたビートたけしが遅刻の言い訳につかう「お化けが出たから」が周りから許容されるのはなぜか、まで、頭の中をいろんな問題がかけめぐった。

 

㉗ じつは『謝罪論』は読み通していない。読み通していないのに、もうすでに頭のなかは謝罪についてのあれこれの問題でいっぱいである。古田さん、天野さん、とても刺激になりました。

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